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神々が人間らしい多神教のユルさ

「いなり、こんこん、恋いろは」。
主人公の名前が「まんま伏見稲荷じゃんコレ!!」と思い、つい見てみたくなってしまったこのアニメ。
メインとなる街もそのまま伏見稲荷で、稲荷神社はよくよく登場する。
稲荷神社で祀られる稲荷様は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と言い、作中では『うか様』の愛称で親しまれている。

作中の神々は宇迦様をメインに、天照も出れば、妖怪なんじゃないかと疑いたくなる神もたくさん出る。
天照が意地悪だったり、宇迦様はゲーム狂(しかも恋愛シミュレーションが好き)と、すっかり世俗に染まっている。
神様の癖に、誰も彼もが人間らしいのだ。
そう、あまりにも神様が人間臭い。
しかし、思えば多神教の神々は、どこか人間臭いものであった。
ギリシャ神話ゼウスは浮気性であるし、ヒンドゥー教のガネーシャだって、像の頭になった理由の所説の一つに、シヴァ神による風呂覗き未遂疑惑があるのだ。
日本だってスサノオは元は素行が悪かったわけであるし、多神教の神々は大変人間臭いお方が目立つ。
しかし、だからこそ、お稲荷さんが恋愛シミュレーションに興じるなどという人間臭い設定もできるのだろう。


一神教の怖さと靖国の謎

そもそもこのブログで宗教について書きたいとは思ってなかったのだが、どうしても気になってしまった。
いかんせんキナ臭い時代だ。
今は表立った動きは感じないものの、また靖国神社の問題も再発しそうな気がしないでもない。
いかんせん、政治/外交的な問題は私にはよくわからないが、気になったのは靖国が一神教なのか多神教なのかということである。

例えばキリスト教とイスラム教。互いに一神教(しかも同じ神)なのだが、互いに分かり合えたことはあっただろうか。
今日に至るまでたくさんの戦争を起こしてきたのは、宗教だけで見れば一神教だろう。
もちろん、実際の戦争はその裏で儲ける商人の暗躍あってのものだが、宗教だけで見れば一神教の方が危ない気はしている。
一神教の神は『完璧な存在』であり、あまり創作の自由が入り込む余地はない気がしている。

さて、靖国は一神教なのか多神教なのか。そこが妙に気になってしまった。


祀られる単純人数は多いが・・・

靖国は日本古来の神道とはまったく違うものであることは、他のブログでよく書かれている。
あくまでも「天皇のために戦死した者を神とする」ための神社であり、天照やら宇迦乃御魂とは全く違う存在なわけだ。
もし靖国が多神教か一神教かを聞かれたら、私はなんとなく一神教に近いと考えている。

確かに祀られる単純人数は多いのだが、そこに多神教ならではの人間性を感じることができないのだ。
反面、個々人の人格を祀るものではなく、天皇のために戦死した者という概念が崇拝の対象と考えるなら一神教に近い存在だと思ってしまうのだ。
例えば靖国に祀られる英霊達が、麻雀やスロットに興ずるような漫画を描くことなどできようか。
どうもお咎め間違いなしで、創作の入るこむ余地はない気がしている。
靖国が神社の姿をしている以上、一定の宗教性があるのだが、アレを宗教としてみると、一神教のような性質を感じている。

靖国に対する違和感に関しては、井上章一氏の著書、「京都ぎらい」でも触れられている。
少なくともアレは「死んだら皆神」というような思想に基づいてはいないし、八百万の神のような多様性、寛容性も感じられない。特性上、戦没者を慰霊するためのものでもないようだ。

創作からつい疑問をもってしまったが、まぁ所詮、政治も宗教も碌にしらない私の戯言である。
知的な人から見れば、妄言も甚だしいかもしれないので、不幸にもこの記事をここまで読んでしまったら、スマホをそっ閉じして欲しいものである。