ブログネタ
フリーターの本音 に参加中!

ルールや契約書というものは果たしてなぜ存在するのだろう。
2社目のコールセンター会社で年配の管理者が次のことを教えてくれた。


「ルールとは明文化された決まり事。
マナーは明文化されていないが、心遣いで行うもの。
常識は明文化されていない習慣事。」


思い返せば2社目のコールセンターの管理者こそ『社会人のイロハのイ』を教えてくれた師だが、こうしたことをキチンと教えてくれる人は少ないのかもしれない。
本来なら拘束力はルール⇒マナー⇒常識の順番に拘束力が強い筈だ。
ところが少なくとも日本では、その順位が逆転してしまうらしい。
普段の生活の中では"ルール"を守ることには重きを置かれない。だが、都合の良い時だけ、世間はルールを振りかざす。




しかし、法律とはそもそもなぜ存在するのだろうか。
思うに、法律や規則というものは、人間同士が互いに分かり合えないことを前提に作られていると思うのだ。
例えば会社にいる同僚はどこからどうやって通っているだろう。
個々の会社までの通う道のりが違うように、私達の人生の歩み方もそれぞれ違う。当然、価値観も違うだろう。そこにはどうしても、互いに分かり合えない部分が出てくる。

分かり合えない他人同士が組織や国の中で、どう生きるべきか。
そのための行動規範として法律が生まれ、道徳規範としての宗教が植えられ、ビジネスにおける客と売り手の妥協点として契約書という書面が生まれた。
それでいて初めて『社会』になったのだと私は考えている。