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Chapter:02 主権
自らの権利を獲得しようとほど、様々な軋轢が存在するものだ。
無論、集団に迎合することもできれば、有給を消化しないこともできる。
だが、労働者の権利は、そんな周囲との軋轢と戦って勝ち取ることにある。
~~~~~~~~~斑鳩:Chapter2『試練』より(嘘)~~~~~~~~~
一体なぜ日本企業では有給が使いづらいのか。
多くの人は、業務量過多、属人化を問題にするのではないだろうか。
或いは、単に皆が取らないから取りづらいと。
少なくとも、私はそう考えていた。

しかし、その考えが誤りであることは、先日やっと気付いたばかりだ。
社畜の源流を遡ってみると、それは400年も前に遡る。
中央大学の研究によると、その源泉が作られたのは、秀吉の朝鮮出兵の時。
この時、朝鮮半島にあった活字印刷技術と一緒に、朱子学の書物も持ち帰ったらしい(余計なことしてくれたもんだ)。
それが江戸時代に川の流れが作られ、明治時代には『教育勅語』と姿を変え、商家にあった丁稚奉公の文化とミックスして、今日の社畜を形成したのではないかと考えている。
一時期・・・、ホンの一時期、陽明学が微妙に勢力を持った時代はあった。本だけに。
大塩平八郎が洗心洞を経営し、討幕への気運を作った。
ところが討幕を進めるのに大きな影響力を与えたのは、水戸学という、これまた朱子学の一派で、"君"が将軍から天皇に変わっただけ
明治政府になり、教育勅語が出されたが、教育勅語の原文は朱子学者が書いているため、結局朱子学から抜け出せないのだ。
何が言いたいのかといえば、社畜とは400年の教育の積み重ねで作られた呪いの産物であるということである。
どうも我々は『主』というものを必要とするらしい。それは日本の近代史が良く語っている。
明治維新にしたって、それは『天皇という主』に主権を返させるためのもので、決してフランス革命のような、市民が権利を勝ち取るものではなかったのだ。
今日日の社畜と共通して言えるのは、その『主』の為に、自らの権利を差し出すのが美とされる。
さしずめ、今日のブラック企業問題や社畜体質。その本質を突き詰めたければ、この400年を振り返らねば、見えない気がしている。
武家を中心に流行った朱子学、商家の丁稚奉公、明治に士農工商が廃絶されたことによって混じり合う、両者の文化。それは今日の社畜を作る上で重要な役割を果たしており、朱子学なくして社畜なしと見える。
果たして我々がこの朱子学の呪縛から解放される日は来るのか。
ともあれ、日本の会社員には是非、有給を請求する勇気を身に着けてほしいものである。